私の不登校体験。あれから数十年が経ち、不登校の経験から得たと思うこと

こんにちは!このサイトに興味を持って訪れてくれて本当にありがとうございます。

今日は私の不登校体験についてやっと話してみたいと思います。なぜ『やっと』かというと、不登校って大人になってからあえて話すことってもうありません。話すほど原因も分からないし、周りのひとからも『不登校だった?』なんて義務教育期間中の中身を聞かれることも99%ないですから・・・。

下では不登校から得た教訓を書いてます。すぐに出された結論と違い、月日を経て出た答えや、考えが覆らず確信を持ったものもあります。体験談が混ざり長くなりますが、学校生活への参考になれば嬉しいです。

学校は頭で考えながら慎重に通う必要があった

不登校問題はこんなに重いのに、過ぎてしまえば社会からはそれぐらい過小評価されてしまいます。だからこそ登校には家庭や自分なりの価値があります。

不登校体験から得たことのひとつとして、学校生活は自分で自分の過去をどう扱いたいし、人からどう扱ってもらいたいかということにあります。あとになって誰からも聞かれない成績や能力より、自分なりにこの期間を丁寧に過ごせる自律性があったかどうかが生涯に渡り大切だとわかりました。

私は伸び伸び育ち活発なタイプだったのですが、まさにこれが思春期における劣等感の原因だったと感じるようになりました。親は活発なことを好み喜んでいたので、大人になるまで原因として疑ったこともありませんでした。

トップページには「不登校は誰でも卒業する」と書きましたが、それは本当です。解釈によっては不登校の悩みは家族や子どもたちにとって今しか実感できない時間でもあります。でもここへ来た貴方はその尊さが苦しみを生んでいることをもうわかっています。

自分がなるのは決して低い確率ではない不登校

もう数十年も前の話で、私の体験談は令和の不登校事情とは全く違います。

当時は不登校の生徒なんて学年全体を通しても全くいないか、いたとしても元々長く欠席が続いている言わばちょっと『触れてはいけないタイプ』という生徒さんぐらいでした。

そんな中、私も中学三年生の秋頃から学校へ行けなくなってしまいました。まず中学へ入ったころからすでに深刻な兆候があり、突然スポーツがほとんどできなくなってしまいました。

特に顕著なのは球技で、受けるのも投げるのも勇気がまったくなくなりました。頭もボーッとしていて、基本ただその場に立ち尽くしていることしかできません。具合が悪いわけではないのです。直前で”次の動作”が「フッ」と消えてしまうのです。

また、体育の時間になると自分が何者なのかもよくわからない感覚もありました。鏡のない世界で、なんの確信もなく存在してるという感じです。この感覚がつらくてたまりませんでした!

次第に『なにかの掛け違いで、私はこの流れのなかにいないのだろうな』と思うようになりました。その点は大人になってからも覆ることはなく、我ながら結構面白い視点だったなと思うし、原因はどうあれそれはじゅうぶんありえる現象だと思います。

中学校が物理的に歩幅が合わないとかポジションが合わないっていう不適合感を子供心に感じました。

学校は強い自意識や悩みが多いほど遅れを取るシステム

それでもしばらくは学校には通いましたが、机に向かっても私はすぐにお腹が減り、授業中は一限目から毎日空腹でお腹が鳴っていました。自分って何しに学校へ来てるんだろう状態です。他にも自己管理が甘い悩みなどさまざまな苦労はありましたが、特筆すべきことはまず集団生活を送るにあたり『恥ずかしいことが多すぎる』というものです。

もちろん朝食抜きで登校したわけではありません。食事内容や量も見直して実践したのに全く解決せず、学校に着くと『また今日も恥をやり過ごすだけ』と緊張が強くなりました。

私が授業中にお腹が鳴らないかやきもきしてる間、そんな悩みがないひとの脳内は先に進んでいます。自分は学校のなかではもう何もうまくやれないんだ、という漠然とした思いが過ってました。

何より最もわかりやすいのは『スポーツができない』ということでスタートダッシュに圧倒的に失敗していることで、周りからみてもヒエラルキーは一目瞭然です。いずれにしても集団生活や社会の厳しい現実に、不登校の生徒は子供のうちに気付いてる可能性があると言うことです。

しかし突然の引っ越しにより失敗した中学校とは2年生の夏にオサラバすることに

私の家庭はステップファミリーで複雑でした。突然の引っ越しがなぜ行われたのかはご想像にお任せします。

子供の心は複雑で、中学校には能力で馴染むのには失敗したけど他のところでは信頼関係があったような気がしたのです。突然の転校でしたが、実際に転校先にすぐみんなからのメッセージが書かれた色紙が送られてきたのです。私なんかにそうした手間を掛けてくれたことがすごく嬉しくて、またありがたかったのを今でもはっきり覚えてます。

私の親は、私に一言も相談もことわりもなく勝手に転校手続きを急速に進めていました。転校を知ったのも親自身からではなく、学校で手続きのやりとりをたまたま聞いていた同級生から当日に聞いたという状態でした。

転校ってなんの引き継ぎも心の準備もいらずそんなに簡単にできるんだ!とすごく驚きました。これにより信頼関係の芽を無断でむしられた行為は、今でも深い喪失感につながってます!

毒親議論は不登校解決にあたり割りに合わないため廃れはじめてる

しかし現代では不登校は基本的には全面的に親の責任というわけではないという流れが一般的です。やはり学校が自分のイキイキできる居場所ではないと本人が感じているばかりか、一度その場を離れてしまうと学校のどこにもリサーチできないという深い苦しみが子ども側の根底にあることがあります。

その学校と自分の苦しみに親は関係がありません。そしてその繋がりのない感覚が朝、比較的簡単に欠席を選択してしまう大きな理由でもありました。

一方で不登校と虐待がトップクラスに相関してるという説もあります。大事な決断を迫られたときに子どもの脳に霧が掛かってしまうことにもなにか原因があるかもしれません。しかし不登校当事者がそこから議論するということは現代ではもうほとんどオススメされていません。毒親議論や本人への交渉は、自分の人生を取り戻す目的のためにはわりに合わないことが多いためです。

引っ越し先は古い平屋。恥ずかしさしかない

本当に言葉では言い表しにくいんですが、引っ越し先はうまくいかない予感しかありませんでした。

しかも低い平屋の周りは同級生のたくさん住む公営団地やマンションに囲まれており、いつでも平屋をみおろして見ることができると思ったので、絶対に家を知られないようにしていました。

正直プライバシーも全くない気がしたし、思春期の私はまたしても転校先においてもこの平屋がスタートに失敗してるという更に深く沈みこんだ無力感に襲われていました。このときに私は薄々『うちの親はおかしいのかもしれない』と感じました。

はじめの中学校もなぜか制服で揉めて、姉のが何着もあったため新しい制服を購入してもらえず前日からシャツにアイロンがけをしたり忙しく、幸先の悪かったという覚えがあります。

ちなみにその広い駐車場の中に不自然にたたずむ平屋の正体は、オーナーが家賃収入のため取り壊しを拒否していたからだったようです。(笑)

こうした状況のなかで徐々に何かが崩壊し、「現実に抗うことはやめよう、でも自分の心は守らなきゃ」という考えに至り、半引きこもりのようになりました。

ついに引っ越し先でつらい睡眠障害になってしまった

一段落つくとなぜか金縛りに毎日遭っていて、それが原因となって転校して半年ぐらいもすればかなり深刻な睡眠不足に陥っていました。夜だけではなく、昼寝でもまったく普通に寝ることができず、必ず寝入り端になると地鳴りや異音の感覚で起こされ、すぐさま金縛りに遇うのです。そこには自分の考えは少しも入り込む余地がありません。もちろんお化けのようなものはセットです。

金縛りは科学で解明されてると言いますが、私のような当人はそのメカニズムを知りたいのではありません。金縛りによりれっきとした睡眠妨害に遭い、学校に行けなくなったという動かぬ事実があったことには変わりないのです。

それだけ深刻なのに結局はその家にいるんじゃないか。と思うかも知れませんが、快適に寝てるわけではなく、怯えながら気付いたら朝になっていたり、いわば気を失ってるだけなのです。

経験のあるひとならわかると思いますが、睡眠障害は心身ともにとても苦痛です。更に他人の睡眠には誰も興味などなく、社会的に睡眠障害であることのメリットがなにひとつもないことに不幸の根深さがあります。

この状態からどのような動機付けによっても学校へは行けません。

ケーブルテレビでアメリカの音楽の存在を知った

それまでは純粋に日本の音楽を楽しんでいました。ある日親が契約したケーブルテレビを暇つぶしや気分転換に見ていたら、同じ年ぐらいの若い白人が歌っていて、その美しさや完成度の高さに圧倒されていました。そして何だか背景に不思議な魅力の感覚を覚えました。ただ単に音楽や人間に関心をもっただけではなく、アメリカの風景も気になりました。

今思えば単にロケ地なだけでアメリカとは限らないのですが、自分はアメリカへ行ってあの灼熱感のある気候を体験してみたいと考えるようになりました。

それから洋楽やに没頭するようになりました。当時は大きな書店へいくと輸入雑誌が稀に売られていて、日本の音楽雑誌で物足りないときはそこから情報を得るしかありませんでした。

つづく・・・